5/15/2018

セドナの土地とメディテーション(瞑想) (1)

セドナの土地とメディテーションとの関係を考えてみたいと思います。

なぜ、セドナの土地で行うメディテーションは雰囲気が違うのでしょうか?



Photo by Koh @Twin peaks from Bell

メディテーション(瞑想)は多くの方がやられているとは思います。毎日ではなく時々って方もいれば、かなりハードにやられている方もいるでしょう。私はこれまでお逢いしてきた人たちの中では比較的頻繁にやっている方なんじゃないかと自分では思っています。

10数年前まだ日本に居た頃かなり深くおこなっていた時期もありましたね。

私は基本的には一人で何もかもを行うたちなので、メディテーションもほぼ独学です。もちろん当初はとある禅寺に数日間通ったり、誰かに誘導瞑想をおこなってもらったり、CDなども聞いたりもしました。そこで基本的なことは学ばせていただきましたが、やはり、自分一人でおこなった方がしっくり来るし、何よりとても個人的な活動なので1人でおこなうものだと考えていました。それが最近、不思議なことに、人への誘導瞑想を自分が言葉に出して行う機会が増えてきて、しかも、これも不思議なんですが、その人の瞑想の深さとか、方向性がなんだか分かるようになってきたんです。
自分でもよく分からないんですがね…

もう自分一人だけでメディテーションをする時期を通過したのかもしれないな…って勝手に思っていますが。

「メディテーション・・・瞑想のことですが、 よくやられますか?」 

という問いを私はご案内した多くの方に聞いています(はずです)が、余程この世界に入っている人以外はたいてい、その返答をする時、ほんのわずかですが一瞬だけ「間(ま)」が開くケースが多いです。ほんの一瞬です。きっとご本人も気がつかれていないと思います。

その「間」で、そうか、まだまだ、日本でのメディテーションはマイノリティーなんだなーと感じてしまいます。私がいた時も別に隠しているわけでは無いけど、不特定多数の人々に自分が瞑想していることなどはあまり話すような機会もなかった気もしているので、まだ、変わっていないなあと懐かしく思っています。

インドなどに行かれている方も多いでしょうし、ヨガをやられている方も多いです。禅宗や密教、山岳宗教に興味がある方も多いでしょうし、神社仏閣巡りなどはかなり一般化しているように思えますが、こと 「瞑想」 という言葉になると、同じグループでない限り、ちょっと違和感を持つのかもしれませんね。

その点、セドナ周辺では メディテーションはヨガと同じぐらい、かなり一般的な行為だと思っていただいた方が良いかと思います、少なくとも私の周りはほとんどの方が宗派や人種を超えておこなっています。

メディテーションはそれ自体が即物的な何かの迷いや問題ー例えば、お金の問題や人間関係の問題、会社内でのごたごたした問題など を直接的に解決するようなものではなく、長く行い続けることで、どっしりとしたゆるぎないものが、じわじわと出てくるものなので、忙しい生活をされている方や直ぐにレスポンスが欲しい時間を生きている方にとっては、分かりにくく、必要性を感じないのかもしれません。

なかには、瞑想って単に座ってじっと空想や妄想しているだけでしょ? 空想・妄想でお腹が膨れたら苦労しません!行動が大事! そんな時間があったら、自己啓発の本や経済書を読んだ方がよっぽど役に立つ! 瞑想なんて迷走だ!(そう云い放った人を思い出しました) って思う人も多いと思います。

そういう方にはこう申し上げています。

「メディテーションは目的が違います。明日食べるものを見つけ出す手段を教えてくれるものではなく、明日の糧を見つけようとする原動力を与えるものです、人が様々な考えを取り入れようとする器や原動力を大きくするもの、だと。」 つまり、人間力 とでもいった方が良いものが変化します。少なくとも、私はそう思っています。

ただ、私がそういう事を言えるようになったのは、実はセドナの地に移り住み、この地でメディテーションを行うようになってからでした。日本にいた頃には、頭ではわかっていたのですが、腹(身体)には染み込んでいなかったように思います。

それは年月を重ねる「経験」というものによる作用なのかとも考えました。でも、私の中の結論は、これまで何度となく多くの方々にお話ししている 「土地の持つ力・エネルギー・方向性」が原因なのだと思っています。


日本にいた時に行う瞑想は 瞑想しても 何かにつながるような感覚の方が強い気がしています。霊的存在だとか、宇宙とか、過去生だとか、ハイヤーセルフと云われるものだとか…

でも、ここでは そういうものではない、もっと大きなもののなかに漂う感覚である気がしています。

あっ 補足ですが、この何かにつながる行為は チャネリングであって、メディテーションとは似ていますが、違うものだという事は申し上げておきます。

私がメディテーションを誘導させて頂いた方の中には、この地でも、日本でのやり方をそのまま行うので日本で獲られるものを探しながらメディテーションをしているケースがほとんどでした。

その時はメディテーションが目的ではないし、その方法も自分自身まだ捉え切れていなかったので、特に何もお話はしませんでしたが、その後数人が全く同じ状況だったのを機に、あれこれ考えるようになり、日本でのやり方ではないものを考えだしました。

日本では その土地の方向性のために、メディテーションを行おうとすると、チャネリングのようになってしまうものなのだと思っています。その辺りは 私の記事 「グレートスピリットとヤマトの神」にも書いています。
 
だから、日本には イタコさんや霊能者と云われるあの世の世界の人の言葉を伝える役割の人が いっぱいいるんだと思います。霊能者(サイキック)と呼ばれる人は世界中にいますが、日本の霊能者のように死んだ祖先の人の言葉や神話に登場する祖先を伝える(正しいかどうかは別として)人は世界を見ても日本が突出していると思っています。

つまり、何かを探そうとしてしまうんですね。
特に何かこの3次元の世界に役に立つと思われる良い言葉を…

これは本当の意味でチャネリングが出来ている方なら良いんです。どれが自分の言葉で、どれが異次元の人の言葉なのかが分かっている方であれば…

でも残念ながら、チャネラーのなかには、異次元の人の言葉のふりをしながら、自分が読んできた本の内容だとか、他人の言葉だとか自分の考えを述べているケースも少なくありません。

そして、その言葉が降りてくる! ことに憧れている人が とても多いので、瞑想することは、そういう言葉を聴けるようになることが目的のように思っている、だから、言葉を聴けないと瞑想できていないと思ってしまう… 


メディテーションはどこかからの言葉を聞くものではありません。言葉にならない、言葉になる前の段階である無意識を活性化することが目的です、逆をいうと、人間の言葉として意識に浮きあがった瞬間にそれは全く違うものになるのです。
さらにいうとメディテーションは言葉を駆使する意識では捉えることが出来にくいものだと思っています。

なんだか、禅問答のようなう雰囲気になってきましたので、これはこの辺りでやめておきましょう。

その辺りがお好きな方は 唯識 や道元禅師「正法眼蔵」を是非おすすめします。 

余談ですが 禅と瞑想は同じかというと、目的は本来同じだったものが、形式が加わると禅になると捉えています。それは仏教や数多くの宗教と同じです。原始仏教、原始キリスト教、など宗教の起こりの目的は本来同じものであったはずが、それを維持するために形式を盛り込み、人が伝播をし始めると、全く違うものが出来上がるものです。余談終わり

メディテーション(瞑想)は本来、散乱しがちな意識を内なる世界に集中することで、そこに存在する光を見つけ出し、それを大きくすることで、ゆるぎないものを浮上させることが目的です。メディテーション(瞑想)が出来るようになると、あれこれ抱えている問題が心配や不安を引き起こす原因ではなく、明日を生きる糧に不思議と変わってゆく、とても重要なものなのです。


そう私は捉えています。自分以外の他のものに答えを求める行為はメディテーションとは呼ばないと捉えています。
正法眼蔵に書いてあることを頭ではなく、無意識で理解しようと思ったら、是非一度セドナに足を運んでください。 永平寺ではなく…

※メディテーションについては、まだしばらくお話ししたいですが、さらに長くなるので、いったんここで切らせて頂きます。 この後すぐに書きますのでご容赦を…
 この話題で2か月もブランクを空けることはありません!


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セドナでAirB&Bも行ってます

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